天漢民族文化論壇

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非要反感汉妆像艺妓,汉服仿和服给我进来!

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发表于 2005-2-7 14:12:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
<H3>飛鳥時代</H3>
<P> 冠位十二階を定めた聖徳太子の時代の服制は定かではありません。かつての1万円札で有名な伝「聖徳太子図像」は、奈良時代の服制による武官ものですから参考にはなりません。わずかに太子没後に制作された「天寿国繍帳」にある人物像が、当時の服制をたどるよすがとなります。

 さらに天武朝になりますと、唐の影響を受けた服制がもたらされているようで、これは高松塚古墳壁画の図像に見ることができます。特徴的なのは前の打ち合わせが左前であることで、これはそれまでわが国&#12539;中国を問わず連綿と引き継がれてきた習慣でした。これは古墳から出土される埴輪でも確認されます。当時の服制は明確ではありません。官位制度は複雑になりましたが基本的には冠により区別され、たとえば藤原鎌足が「大織冠」の位を贈られたなど、服よりも冠に重点が置かれたようです。</P>
<H3>奈良時代</H3>
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<TD><IMG src="http://www.kariginu.jp/kikata/raikan.jpg" border=0></TD></TR>
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<TD align=middle>礼冠</TD></TR></TABLE>
<P> 奈良時代にはいると、唐の制度を受けて服制は刷新され、律令に基づく明確な法律「衣服令」(えぶくりょう)が定められました。この服制はほとんど唐の制度をまねたもので、これを受けた養老令(養老二年)では礼服(らいぶく)&#12539;朝服(ちょうぶく)&#12539;制服(せいぶく)が定められています。

 礼服は重儀に用いられるもので、後には即位の大礼にのみ用いられ、明治天皇の父君孝明天皇の御即位までこれが用いられました。あまりに特殊であるのでこのHPでは礼服には触れませんが、完全に唐風のものです。

朝服は官吏の勤務服です。これが発展して束帯や衣冠になりました。文官は脇を縫った縫腋(ほうえき)の袍、武官は活動しやすいように腋を縫わない闕腋(けってき)の袍を用いました。冠は黒の羅で、五位以上は有文、六位以下は無文。文官は2本の纓(えい)を後ろに垂らし(垂纓)、武官は活動の便を図って上に巻き上げました(巻纓)。ここで興味深いのは武官が帯剣する際に剣を結ぶ帯を「倭織(しずおり)」と言い、わが国独自の原始的平織物を用いていることです。いかに服制が唐風になっても、武人の魂たる剣は和風でありたいという気持ちであったのでしょうか。この倭織の帯は後に「平緒」という飾りになりますが、紫だん(だんだら染め)などが多用されているのは、倭織の名残とも考えられます。朝服は後の袍と比較すると袖幅も細く、現代の洋服のように活動的でした。また袍を束ねる帯も「びじょう」が付いた現代そっくりの皮ベルトで、後の石帯よりも機能的ではありました。こうした動きやすい朝服が国風文化の興隆と共に次第に緩やかで幅広のシルエットに変化して袍になったのです。

 制服は無位無冠の庶民が公事に従事する際の服で、朝服に似たものです。色は黄色とされましたが、この無位=黄色は明治まで引き継がれました。
 こうして律令の定めは形を変えながらも原則として明治まで生きていました。装束については今日でも準拠していると言えるでしょう。

 なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵&#12539;さじん)が右前(右袵&#12539;うじん)となりました。このとき同時に官人に把笏を命じています。前年に遣唐使が帰国していますから、その報告によって世界最先端かつ国際ルールとしての唐の風俗にならったものでしょう。ちなみに左前は騎乗で矢を射るときに矢が服に当たることがないため、中国北方騎馬民族が愛用しました(さらに言えば、右前は刀を抜くとき鍔がひっかかりにくいという理由もあるそうです)。そのため、唐はそれまで自分たちも用いていた左前を蛮人風俗と忌み嫌い、右前に改めたと言われています。</P>
<H3>平安時代</H3>
<TABLE border=0>

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<TD><IMG src="http://www.kariginu.jp/kikata/sokuta-shinzo.gif" border=0></TD>
<TD>
<TABLE border=0>

<TR>
<TD><B>束帯の原型?</B>

 平安時代末期、12世紀の神像に見られる束帯姿に
着色してみました。
 神像ということで冠に極端なデフォルメも見られますが、
細身のシルエットに高い詰め襟など、古式の朝服式束帯
を彷彿とさせます。
 同様の神像はこの時代に多く造られています。</TD></TR></TABLE></TD></TR></TABLE>
<P> 初期の頃は奈良時代のままでしたが、中期頃から国風文化の影響を受けてきます。すべてが幅広で、ゆったりとしたものになり、武官の服装もとても戦闘に向かない形式的なものになりました。藤原時代になりますと服色も現代と同じく黒&#12539;緋&#12539;縹の三色に集約されるなど、服制の面ではほぼ今日どおりになってきます。狩衣が公家階級の平常着になるのもこの頃です。重ね色目の定めもこの時代から起こってきます。

 前代の平服が次代の礼服になるのは世の常ですが、直衣に冠を付けて宮中に参内できるようになったり、宮中でも束帯よりも(本来宿直装束の)衣冠が通常着になったり、なし崩し的に軽便な方式に切り替わってきました。これは律令政治の崩壊と期を一にしていることです。

 「平安時代」と言っても400年間もあり、一口には語れません。ふつう簡単に「平安装束」というように言われますが、実は清少納言や紫式部の頃の装束の実相はよく判っていないのです。</P>
<H3>平安末期(院政時代)</H3>
<P> 摂関政治が衰え、院政時代が始まると武家の勢力が増大してきます。武家は公家よりも活動的な衣服を好み、また華美に走ることもなかったために、狩衣を公服として用いました。官位があればもちろん束帯も着用しましたが、公家ほど利用はしなかったようです。この風潮がこの時代以降続きます。たとえば水干は本来狩衣のように上げ頚で着用するものですが、この襟を内側に折り込んで今日の着物のように着たりすることもこの頃から始まります。裾も袴に着込めて活動しやすくしました。こうした装束の変化が直垂になり、肩衣になり、裃に変化していくことになるのです。

 公家装束では鳥羽上皇の時代に画期的な変化が起こりました。剛装束(こわしょうぞく)の登場です。糊で固めた厚めの布、きわめて幅広のシルエット、現代のものとほぼ同じ装束です。これではとても一人では着用できなくなり、衣文道が生まれてくるのです。この動きは公家が政治の第一線から退き、華美に走り、活動的でなくなったことをも意味しています。特徴的なことの一つは冠です。纓(えい)はそれまで、冠の巾子(こじ)を締めた紐の名残で二本の布が後ろにだらりと垂れていました(武官は活動のため端を上に巻き上げていました)。ところが剛装束になると、纓は巾子の後ろから一度上がって下に垂れる形式になります。当然芯がなくてはこうはなりませんから、鯨のヒゲなどで形作り、そこに布を張って纓としました。武官はこれを巻くために、くるりとまん丸の巻纓(けんえい)になりました。院政時代はまださほど纓が高くありませんが、時代を経るに従って、立ち上がりが高くなります。ただし今日に至るまで、巾子よりも高くしないことを定法とします(天皇の立纓冠を除く)。

 また、この頃から男女ともに下着に白い小袖を着るようになります。それまでは単が下着であったのです。

 この時代には束帯はほとんど儀式のみに用いられるようになりました。院政では当然参内より院参が多くなるため、堅苦しい宮中と違って簡略化が目立ち、冠直衣が公服化しました。直衣の色(冬白&#12539;夏二藍など)や文様についての細かいきまりが生まれてくるのはそのせいかもしれません。今に伝わる「有職故実」のうち朝廷儀式に関すること以外は、この院政時代から鎌倉時代にかけて生まれ、室町時代に完成したものと言えるでしょう。</P>
<H3>鎌倉&#12539;室町時代</H3>
<P> 公家はまったく政治の実権を失い、儀式も自己目的となるに従って、細かな有職故実や衣紋道が成立しました。装束は前例踏襲を旨とするようになります。水干までもが公家の平常着に進出してしまうようになりました。武家は狩衣を公服とし、水干が改まった服、直垂が平常着になります。水干をVネックに着る方法を「垂頸(たりくび)」と言います(通常の着方は「上頸(あげくび)」)。この着方から直垂(ひたたれ)が生まれました。直垂が装束直系なのは現代の着物と異なって脇が縫われていないことで判ります。</P>
<H3>戦国&#12539;安土桃山時代&#12539;江戸初期</H3>
<P> 京は戦乱がうち続いて荒廃し、公家も各地に散らばるなど、装束に凝るどころの時代ではありませんでした。天皇の袍の黄櫨染色の作出技術も失われ、それまで天皇の第二色であった「青色(青鳩色)」の袍が天皇の第一色になりました。応仁の乱から後の100年余りは公家文化が完全に途絶した期間であり、それ以前と以後では、かなり違った物になっていると言えます。江戸時代中期~後期に「装束御再興」運動が起きるまでは、平安以来の故実から隔絶された時代が続きました。

 織田信長は尊皇の意志が強く、有職故実家である山科家とのつながりもあって公事復興に力を示します。続く豊臣&#12539;徳川も政治的配慮もあってか尊皇を建て前として即位の大礼に資金を投じるなど、さまざまな面で装束の復興に力を注ぎました。しかし後年軽視された「寛永有職」という言葉があるように、当時の装束は古式とは似ても似つかず、能装束のような布で袍を作るなど、非常に混乱したものであったようです。</P>
<H3>江戸時代</H3>
<P> 幕府は公家勢力の力を押さえるために「禁中並公家諸法度」を定め、衣服のことにまで制限を加えました。が、一方では享保以後には「ご再興」と称して乱れた服制を有職故実に則った形に戻そうという動きもありました。天皇の袍の黄櫨染色もこの頃から復興しています。

 幕府の服制は第一位が束帯でしたが、これは将軍宣下などの重要公事にのみ用いられ、その他の場合は身分に応じて、直垂&#12539;狩衣&#12539;大文&#12539;布衣&#12539;素襖の階級に分かれていました。この時代になると狩衣は第一礼装とも呼べるクラスまで出世しています。また指貫も簡略化されて普通の袴のように下を切った「差袴」が多用されるようになり、狩衣のみならず衣冠の場合ですら利用されるようになりました。宮中の衣冠に於いてさえ一日と十五日のみ指貫(このころから奴袴&#12539;ぬばかまとも呼ばれるようになりました)で、それ以外は差袴が普通になってしまいました。

 この時代の公家装束で特徴的なのは、袍や狩衣の襟(首上)が極端に低くなり、襟ぐりも大きくなって、下に着ている単や白小袖が襟から見えるようになったことと、冠に掛け緒を使うようになったことです。冠は本来は簪で巾子に入れた髪を突き刺して留めていたのですが、この時代は月代(さかやき)を剃るようになって髪が減ったためにこれができなくなり、掛け緒で固定する必要が生じたのです。これにより冠や烏帽子は小型化し、頭にちょこんと乗っているだけのようなものになりました。

 女房装束でも、宮中女官が白小袖に緋袴が通常服となり、袴の緒を肩に掛ける「大腰姿」という変わった着方もされました。また裳には「掛け帯」というものを肩から前に掛けて結ぶ、平安時代にはなかったものも用いられ、さらに髪型も(もともとは京都吉原習俗の)「おすべらかし」という大仰な形が取り入れられました。

 こうした故実にない装束は元和6(1620)年の徳川和子入内から少しずつ是正され、天保15(1844)年、のちの孝明天皇御元服の「御再興」で改められましたが、女房の髪型が「おすべらかし」であるように、装束も多くの面で平安時代とは懸け離れたものになっています。。今日目にする装束のほとんどがこの頃の形式のものなのです。

 公家は各家の家格や職掌が世襲化し、その家独自の文様などが生まれました。袍でも大臣になるまでは輪無唐草や轡唐草などの通用文でしたが、大臣任官の後は各家独自の文を織りだして用いるといったことが行われるようになりました。万事旧習を墨守することが尊重された時代だったのです。このころの公家の経済的困窮は著しく、装束も満足に整えることは困難で貸衣裳に頼ることもあったようです。京には「若狭屋」「鍵屋」などの貸衣裳屋があり、黒袍&#12539;縹袍装束一式を百疋、赤袍装束一式二百疋で貸し付け、その他供奉の随身装束まで一式を貸していた言う話が伝わっています。</P>
 楼主| 发表于 2005-2-7 14:14:00 | 显示全部楼层
日本的飞鸟时代和奈良时代正是我们的唐代,请大家好好看看
 楼主| 发表于 2005-2-7 14:29:00 | 显示全部楼层
<P><a href="http://cn.shanghai-q.com/cjbbs/read.php?b=cul&amp;t=2213" target="_blank" >http://cn.shanghai-q.com/cjbbs/read.php?b=cul&amp;t=2213</A></P><P>这个地方可以看到译文,大概翻译了一下</P>
发表于 2005-2-7 16:13:00 | 显示全部楼层
<P>楼主,请你解释一下汉服的与和服的差别好么?日本人学习的是唐服,可是汉服和唐服也是有差别的吧</P><P>还有一个问题请教你的就是朝鲜的装着为什么和日本装着又不一样</P><P>谢谢了</P>[em01]
 楼主| 发表于 2005-2-7 23:53:00 | 显示全部楼层
<P>        日本从唐朝之前时就已学习汉服于汉文化,但当时的扶桑还很落后,达不到我们的手工业,在中国人看来是 身高矮的倭人,技术也很</P><P>不发达,到唐朝时,唐王赐服于扶桑王唐服,于是扶桑国仿唐达到鼎盛!!举国以穿唐服为荣,完全相同,因为是唐王所赐,是真正的唐服。</P><P>但唐服也是汉服的一种,而所谓的汉朝服,也可以算是最权威的汉服,对后世服装的影响更是颇深,目前我们所看到的唐服只是当时的一个方</P><P>面,而右交领的汉服,继承前朝,唐代也是有的,不过唐代中国人比较开放,到了日本,又渐渐保守起来,越裹越紧,接近汉朝服,加上后期</P><P>演变形成现在的样子。
        总的来说,和服仿的是汉服中的右衽直裾深衣汉服,韩服仿的是儒裙,两者选择不同特点的汉服向不同方向发展,故而有了区别,但</P><P>直裾和儒裙都是代表性的汉服,在唐朝都有流行,就像后期和服有十二单,桂姿,振袖和服等种类一样,不过这些也都是由汉服演变的,十二</P><P>单就是对襟唐服,多穿了几层,所以现在的和服和韩服实际上是汉服演变的两股分支。
     和服基本保留了汉服直裾的主要特点,不过后来为了生活方便,袖长变短,简化裁减,袖子多是方袖,减少布料,所以裹的很紧,花色面</P><P>料随着时代的进步而日渐丰富,这就是现代和服           
           而汉服由于有几百年的断代,没有演化,我们暂时只能以古服为标准,就汉朝直裾深衣汉服而言,与现代和服的区别就是,袖长,</P><P>行礼时遮住手,深衣下裳更宽大,布料厚重而飘逸,和服是飘不起来的,深衣长度一般应盖住脚面,不过随着不同生活的不同需要,应该会有</P><P>所演变,另外,汉服没有方袖的定性,可方可曲,应人而异,不像和服那么拘束,另外,有人会说和服腰带宽,汉服腰带窄,那纯粹是早期导</P><P>演保守设计,为避开和风而对观众的误导,腰带的宽窄根据个人爱好,一般越是正式场合,或地位高的人士,腰带较宽,武将腰带一般较窄,</P><P>为了行动方便但并没有硬性规定,可以随意。
        另外,记住一点,所谓和风的东西,其实是汉文化的一个缩影,是汉文化的活化石,没有汉仿和之说,只有和仿汉,如果有人觉得汉</P><P>服像和服,那就对了,我们本来就是那样的,如果有人说是我们仿日本,那只能说他对自己国家的传统历史太不了解,请他回去请教专家,
     可以这么说,所有汉文化中让你想到日本的,都是当年古代中原文明赐予古代扶桑,即现代日本,可以说,没有汉服,没有汉文明就没有</P><P>和服,没有和风,甚至没有现在的日本,如果以汉朝为汉族确立族氏的开始,那么,也就是从那时开始,古代扶桑就已开始占我们的光了
   ,汉唐是中国最强盛 的时代,这两朝的服饰也是对外族影响最大的两个朝代。</P>
发表于 2005-2-15 08:09:00 | 显示全部楼层
<DIV class=quote><B>以下是引用<I>梦无边</I>在2005-2-7 16:13:45的o(︶︿︶)o 唉:</B>

<P>楼主,请你解释一下汉服的与和服的差别好么?日本人学习的是唐服,可是汉服和唐服也是有差别的吧</P>
<P>还有一个问题请教你的就是朝鲜的装着为什么和日本装着又不一样</P>
<P>谢谢了</P>[em01]</DIV>
<P>
<P>汉风唐随啊。</P>
<P>汉朝定下了一系列服饰车马制度。在五胡乱华时这些制度都被颠乱,旧唐书称“服饰奇诡”。隋朝统一天下之后,又重新恢复汉制并在汉制基础上进行一些变化。而唐朝取代隋朝后,又沿用隋制并进行一些变化和创新。</P>
发表于 2005-2-25 10:45:00 | 显示全部楼层
<P>日本人连文字都是从中国偷来的</P><P>衣服有什么不好偷的?</P><P>大家说是不是?呵呵</P>
发表于 2005-2-25 17:30:00 | 显示全部楼层
<P>呵呵。 文人不说偷.多难听.</P><P>给他们点面子.</P><P>借鉴哦.呵呵.借鉴.</P>
发表于 2005-2-25 18:19:00 | 显示全部楼层
<P>在纯感性层面,我o(︶︿︶)o 唉本人一向无好感。</P>
发表于 2010-6-24 08:46:28 | 显示全部楼层
东西是被学了,你还能怎么办
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