天漢民族文化論壇

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非要反感汉妆像艺妓,汉服仿和服给我进来!

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发表于 2005-2-7 14:09:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
<H3>飛鳥時代</H3>
<P> 冠位十二階を定めた聖徳太子の時代の服制は定かではありません。かつての1万円札で有名な伝「聖徳太子図像」は、奈良時代の服制による武官ものですから参考にはなりません。わずかに太子没後に制作された「天寿国繍帳」にある人物像が、当時の服制をたどるよすがとなります。

 さらに天武朝になりますと、唐の影響を受けた服制がもたらされているようで、これは高松塚古墳壁画の図像に見ることができます。特徴的なのは前の打ち合わせが左前であることで、これはそれまでわが国&#12539;中国を問わず連綿と引き継がれてきた習慣でした。これは古墳から出土される埴輪でも確認されます。当時の服制は明確ではありません。官位制度は複雑になりましたが基本的には冠により区別され、たとえば藤原鎌足が「大織冠」の位を贈られたなど、服よりも冠に重点が置かれたようです。</P>
<H3>奈良時代</H3>
<TABLE align=left>

<TR>
<TD><IMG src="http://www.kariginu.jp/kikata/raikan.jpg" border=0></TD></TR>
<TR>
<TD align=middle>礼冠</TD></TR></TABLE>
<P> 奈良時代にはいると、唐の制度を受けて服制は刷新され、律令に基づく明確な法律「衣服令」(えぶくりょう)が定められました。この服制はほとんど唐の制度をまねたもので、これを受けた養老令(養老二年)では礼服(らいぶく)&#12539;朝服(ちょうぶく)&#12539;制服(せいぶく)が定められています。

 礼服は重儀に用いられるもので、後には即位の大礼にのみ用いられ、明治天皇の父君孝明天皇の御即位までこれが用いられました。あまりに特殊であるのでこのHPでは礼服には触れませんが、完全に唐風のものです。

朝服は官吏の勤務服です。これが発展して束帯や衣冠になりました。文官は脇を縫った縫腋(ほうえき)の袍、武官は活動しやすいように腋を縫わない闕腋(けってき)の袍を用いました。冠は黒の羅で、五位以上は有文、六位以下は無文。文官は2本の纓(えい)を後ろに垂らし(垂纓)、武官は活動の便を図って上に巻き上げました(巻纓)。ここで興味深いのは武官が帯剣する際に剣を結ぶ帯を「倭織(しずおり)」と言い、わが国独自の原始的平織物を用いていることです。いかに服制が唐風になっても、武人の魂たる剣は和風でありたいという気持ちであったのでしょうか。この倭織の帯は後に「平緒」という飾りになりますが、紫だん(だんだら染め)などが多用されているのは、倭織の名残とも考えられます。朝服は後の袍と比較すると袖幅も細く、現代の洋服のように活動的でした。また袍を束ねる帯も「びじょう」が付いた現代そっくりの皮ベルトで、後の石帯よりも機能的ではありました。こうした動きやすい朝服が国風文化の興隆と共に次第に緩やかで幅広のシルエットに変化して袍になったのです。

 制服は無位無冠の庶民が公事に従事する際の服で、朝服に似たものです。色は黄色とされましたが、この無位=黄色は明治まで引き継がれました。
 こうして律令の定めは形を変えながらも原則として明治まで生きていました。装束については今日でも準拠していると言えるでしょう。

 なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵&#12539;さじん)が右前(右袵&#12539;うじん)となりました。このとき同時に官人に把笏を命じています。前年に遣唐使が帰国していますから、その報告によって世界最先端かつ国際ルールとしての唐の風俗にならったものでしょう。ちなみに左前は騎乗で矢を射るときに矢が服に当たることがないため、中国北方騎馬民族が愛用しました(さらに言えば、右前は刀を抜くとき鍔がひっかかりにくいという理由もあるそうです)。そのため、唐はそれまで自分たちも用いていた左前を蛮人風俗と忌み嫌い、右前に改めたと言われています。</P>
<H3>平安時代</H3>
<TABLE border=0>

<TR>
<TD><IMG src="http://www.kariginu.jp/kikata/sokuta-shinzo.gif" border=0></TD>
<TD>
<TABLE border=0>

<TR>
<TD><B>束帯の原型?</B>

 平安時代末期、12世紀の神像に見られる束帯姿に
着色してみました。
 神像ということで冠に極端なデフォルメも見られますが、
細身のシルエットに高い詰め襟など、古式の朝服式束帯
を彷彿とさせます。
 同様の神像はこの時代に多く造られています。</TD></TR></TABLE></TD></TR></TABLE>
<P> 初期の頃は奈良時代のままでしたが、中期頃から国風文化の影響を受けてきます。すべてが幅広で、ゆったりとしたものになり、武官の服装もとても戦闘に向かない形式的なものになりました。藤原時代になりますと服色も現代と同じく黒&#12539;緋&#12539;縹の三色に集約されるなど、服制の面ではほぼ今日どおりになってきます。狩衣が公家階級の平常着になるのもこの頃です。重ね色目の定めもこの時代から起こってきます。

 前代の平服が次代の礼服になるのは世の常ですが、直衣に冠を付けて宮中に参内できるようになったり、宮中でも束帯よりも(本来宿直装束の)衣冠が通常着になったり、なし崩し的に軽便な方式に切り替わってきました。これは律令政治の崩壊と期を一にしていることです。

 「平安時代」と言っても400年間もあり、一口には語れません。ふつう簡単に「平安装束」というように言われますが、実は清少納言や紫式部の頃の装束の実相はよく判っていないのです。</P>
<H3>平安末期(院政時代)</H3>
<P> 摂関政治が衰え、院政時代が始まると武家の勢力が増大してきます。武家は公家よりも活動的な衣服を好み、また華美に走ることもなかったために、狩衣を公服として用いました。官位があればもちろん束帯も着用しましたが、公家ほど利用はしなかったようです。この風潮がこの時代以降続きます。たとえば水干は本来狩衣のように上げ頚で着用するものですが、この襟を内側に折り込んで今日の着物のように着たりすることもこの頃から始まります。裾も袴に着込めて活動しやすくしました。こうした装束の変化が直垂になり、肩衣になり、裃に変化していくことになるのです。

 公家装束では鳥羽上皇の時代に画期的な変化が起こりました。剛装束(こわしょうぞく)の登場です。糊で固めた厚めの布、きわめて幅広のシルエット、現代のものとほぼ同じ装束です。これではとても一人では着用できなくなり、衣文道が生まれてくるのです。この動きは公家が政治の第一線から退き、華美に走り、活動的でなくなったことをも意味しています。特徴的なことの一つは冠です。纓(えい)はそれまで、冠の巾子(こじ)を締めた紐の名残で二本の布が後ろにだらりと垂れていました(武官は活動のため端を上に巻き上げていました)。ところが剛装束になると、纓は巾子の後ろから一度上がって下に垂れる形式になります。当然芯がなくてはこうはなりませんから、鯨のヒゲなどで形作り、そこに布を張って纓としました。武官はこれを巻くために、くるりとまん丸の巻纓(けんえい)になりました。院政時代はまださほど纓が高くありませんが、時代を経るに従って、立ち上がりが高くなります。ただし今日に至るまで、巾子よりも高くしないことを定法とします(天皇の立纓冠を除く)。

 また、この頃から男女ともに下着に白い小袖を着るようになります。それまでは単が下着であったのです。

 この時代には束帯はほとんど儀式のみに用いられるようになりました。院政では当然参内より院参が多くなるため、堅苦しい宮中と違って簡略化が目立ち、冠直衣が公服化しました。直衣の色(冬白&#12539;夏二藍など)や文様についての細かいきまりが生まれてくるのはそのせいかもしれません。今に伝わる「有職故実」のうち朝廷儀式に関すること以外は、この院政時代から鎌倉時代にかけて生まれ、室町時代に完成したものと言えるでしょう。</P>
<H3>鎌倉&#12539;室町時代</H3>
<P> 公家はまったく政治の実権を失い、儀式も自己目的となるに従って、細かな有職故実や衣紋道が成立しました。装束は前例踏襲を旨とするようになります。水干までもが公家の平常着に進出してしまうようになりました。武家は狩衣を公服とし、水干が改まった服、直垂が平常着になります。水干をVネックに着る方法を「垂頸(たりくび)」と言います(通常の着方は「上頸(あげくび)」)。この着方から直垂(ひたたれ)が生まれました。直垂が装束直系なのは現代の着物と異なって脇が縫われていないことで判ります。</P>
<H3>戦国&#12539;安土桃山時代&#12539;江戸初期</H3>
<P> 京は戦乱がうち続いて荒廃し、公家も各地に散らばるなど、装束に凝るどころの時代ではありませんでした。天皇の袍の黄櫨染色の作出技術も失われ、それまで天皇の第二色であった「青色(青鳩色)」の袍が天皇の第一色になりました。応仁の乱から後の100年余りは公家文化が完全に途絶した期間であり、それ以前と以後では、かなり違った物になっていると言えます。江戸時代中期~後期に「装束御再興」運動が起きるまでは、平安以来の故実から隔絶された時代が続きました。

 織田信長は尊皇の意志が強く、有職故実家である山科家とのつながりもあって公事復興に力を示します。続く豊臣&#12539;徳川も政治的配慮もあってか尊皇を建て前として即位の大礼に資金を投じるなど、さまざまな面で装束の復興に力を注ぎました。しかし後年軽視された「寛永有職」という言葉があるように、当時の装束は古式とは似ても似つかず、能装束のような布で袍を作るなど、非常に混乱したものであったようです。</P>
<H3>江戸時代</H3>
<P> 幕府は公家勢力の力を押さえるために「禁中並公家諸法度」を定め、衣服のことにまで制限を加えました。が、一方では享保以後には「ご再興」と称して乱れた服制を有職故実に則った形に戻そうという動きもありました。天皇の袍の黄櫨染色もこの頃から復興しています。

 幕府の服制は第一位が束帯でしたが、これは将軍宣下などの重要公事にのみ用いられ、その他の場合は身分に応じて、直垂&#12539;狩衣&#12539;大文&#12539;布衣&#12539;素襖の階級に分かれていました。この時代になると狩衣は第一礼装とも呼べるクラスまで出世しています。また指貫も簡略化されて普通の袴のように下を切った「差袴」が多用されるようになり、狩衣のみならず衣冠の場合ですら利用されるようになりました。宮中の衣冠に於いてさえ一日と十五日のみ指貫(このころから奴袴&#12539;ぬばかまとも呼ばれるようになりました)で、それ以外は差袴が普通になってしまいました。

 この時代の公家装束で特徴的なのは、袍や狩衣の襟(首上)が極端に低くなり、襟ぐりも大きくなって、下に着ている単や白小袖が襟から見えるようになったことと、冠に掛け緒を使うようになったことです。冠は本来は簪で巾子に入れた髪を突き刺して留めていたのですが、この時代は月代(さかやき)を剃るようになって髪が減ったためにこれができなくなり、掛け緒で固定する必要が生じたのです。これにより冠や烏帽子は小型化し、頭にちょこんと乗っているだけのようなものになりました。

 女房装束でも、宮中女官が白小袖に緋袴が通常服となり、袴の緒を肩に掛ける「大腰姿」という変わった着方もされました。また裳には「掛け帯」というものを肩から前に掛けて結ぶ、平安時代にはなかったものも用いられ、さらに髪型も(もともとは京都吉原習俗の)「おすべらかし」という大仰な形が取り入れられました。

 こうした故実にない装束は元和6(1620)年の徳川和子入内から少しずつ是正され、天保15(1844)年、のちの孝明天皇御元服の「御再興」で改められましたが、女房の髪型が「おすべらかし」であるように、装束も多くの面で平安時代とは懸け離れたものになっています。。今日目にする装束のほとんどがこの頃の形式のものなのです。

 公家は各家の家格や職掌が世襲化し、その家独自の文様などが生まれました。袍でも大臣になるまでは輪無唐草や轡唐草などの通用文でしたが、大臣任官の後は各家独自の文を織りだして用いるといったことが行われるようになりました。万事旧習を墨守することが尊重された時代だったのです。このころの公家の経済的困窮は著しく、装束も満足に整えることは困難で貸衣裳に頼ることもあったようです。京には「若狭屋」「鍵屋」などの貸衣裳屋があり、黒袍&#12539;縹袍装束一式を百疋、赤袍装束一式二百疋で貸し付け、その他供奉の随身装束まで一式を貸していた言う話が伝わっています。</P>
 楼主| 发表于 2005-2-7 14:11:00 | 显示全部楼层
这是日本网站上的关于和服历史的一段记载,请大家好好看看,特别是第一段,还是可以看懂得!!
发表于 2005-2-7 21:48:00 | 显示全部楼层
楼主MM最好把文章翻译成汉语,这里懂日语的估计没有几个人,看不懂啊。
发表于 2005-2-8 21:54:00 | 显示全部楼层
<P>不用翻也知道了,无非是说日本和服是如何从汉服转化而来的。。。。</P><P>可是,中国是化是红妆的,虽然有点樱桃小口的习惯,也不会为了突出樱桃小口,而把一张脸化得跟鬼似的。。。。</P><P>而且,汉服不会把被子家当全部背在身上的。。。。。这是人家拿过去之后的民族化特色,我们不能因为人家拿过去过,而认为全部都应该是我们的。。。。。</P>
发表于 2005-2-16 13:52:00 | 显示全部楼层
<DIV class=quote><B>以下是引用<I>兰月婉吟</I>在2005-2-8 21:54:03的o(︶︿︶)o 唉:</B>

<P>不用翻也知道了,无非是说日本和服是如何从汉服转化而来的。。。。</P>
<P>可是,中国是化是红妆的,虽然有点樱桃小口的习惯,也不会为了突出樱桃小口,而把一张脸化得跟鬼似的。。。。</P>
<P>而且,汉服不会把被子家当全部背在身上的。。。。。这是人家拿过去之后的民族化特色,我们不能因为人家拿过去过,而认为全部都应该是我们的。。。。。</P></DIV>
<P>
<P>问题在于:说汉服象和服、汉妆象日本艺妓,——这句话严重颠倒了先后顺序和辈份高低。也反过来证明如今的很多人,连自己本民族的服饰文化都弄不明白了!</P>
发表于 2005-2-27 23:33:00 | 显示全部楼层
<P>唐風傳入日本只是盛行於日本宮廷,唐化服飾只有達官貴人才會穿.民間百姓服飾仍是非常本土化,再者奈良後期日本宮廷已經開始擺脫唐風的影響.服飾漸趨和化.</P><P>現在日本的紋服(男裝),和服(女裝)是成形時間是在江戶.已經跟唐服大相徑庭.</P><P>奈良初期</P><P></P><P></P><P>奈良後期</P><P></P><P></P>
发表于 2005-3-1 18:24:00 | 显示全部楼层
<P>日本的“本土服装”是对襟套头衫,交领右衽的样式显然是从中国引进的</P><P>日本的民间服装很可能是受3-5世纪中国江南汉族政权南朝的影响形成的,当时中国的移民进入日本,中国的纺织技术(吴织)传入,吴服也很可能是在这一时期传入的</P><P>另外唐服远远比目前电视剧里面表现的“低胸装”要复杂的多,敦煌壁画中就有很多繁复的唐服。而且当时长安地区首都圈的服装和江南地区肯定是有差别的。</P>
发表于 2005-3-9 16:40:00 | 显示全部楼层
<P>我正好有个疑问,楼主既然o(︶︿︶)o 唉本传统服装这么了解,不如帮我解一下吧!</P><P>日本传统服饰中,是不是没有完整的裙和裳的存在啊?</P><P>因为我现在查到的资料,没找到可以起到裙的作用的下身衣着。</P>
发表于 2005-4-8 20:27:00 | 显示全部楼层
这一贴真该让某论坛看看
发表于 2005-4-30 13:37:00 | 显示全部楼层
<P>特徴的なのは前の打ち合わせが左前であることで、これはそれまでわが国&#12539;中国を問わず連綿と引き継がれてきた習慣でした。</P>
<P>——————————————————————————————————————————————————————————</P>
<P>意思是说交领右衽的式样是与中国的无关的,由日本本土的一直传承下来的服饰特点。</P>
<P>这也转?!这也信??</P>
<P>日本人还在母系社会奴隶社会时,我们已经进入封建社会了啊!!!</P>
<P>后来经由朝鲜,包括朝鲜人还有中原大陆人,有相当移民去了日本。</P>
<P>他们短短几百年就发展成父系了。没有外部文明的介入是不可能的事。</P>
<P>日本人否认历史已经是众所周知的了,这种话也信?靠!</P>
<P>我还看过介绍日本和服由来的,巧妙的只字不提“中国”二字!仿佛和中国无关!</P>
<P>日本人这样写,我们中国也看了也说哦~哦~原来如此呀!</P>
<P>那不是<a href="http://www.tianhan.com.cn/bbs/mailt#@$#@$Q%%&amp;^&amp;*%" target="_blank" >#@$#@$Q%%&amp;^&amp;*%</A> </P>
<P>在唐之前中原和日本就有交流了,这有大量史实证明!</P>
<P>交领右衽的服饰特点绝对是中国传入的!日本人至今还把“和服”叫做“吴服”呢!不然你问问日本人吴服是什么!没几个人不知道的!</P>
<P>“吴”是什么?——“吴国”的“吴”。就是现在我们的苏州一带呀!!</P>[em01]
[此贴子已经被作者于2005-4-30 13:39:34编辑过]

发表于 2005-6-9 18:23:00 | 显示全部楼层
和服又叫吴服,没记错的话应该起源于三国时的吴国
发表于 2006-6-12 15:48:00 | 显示全部楼层
<P>吳 -- 大概是指我國南北朝時代的江南一帶吧...</P><P>我到過日本, 在關西的百貨公司裡只會有『XX 吳服店』而不見有『XX 和服店』。</P>
发表于 2005-7-1 19:12:00 | 显示全部楼层
顶!
发表于 2005-7-2 18:14:00 | 显示全部楼层
<DIV class=quote><B>以下是引用<I>wwwq</I>在2005-4-30 13:37:18的o(︶︿︶)o 唉:</B>

<P>特徴的なのは前の打ち合わせが左前であることで、これはそれまでわが国&#12539;中国を問わず連綿と引き継がれてきた習慣でした。</P>
<P>——————————————————————————————————————————————————————————</P>
<P>意思是说交领右衽的式样是与中国的无关的,由日本本土的一直传承下来的服饰特点。</P>
<P>这也转?!这也信??</P>
<P>日本人还在母系社会奴隶社会时,我们已经进入封建社会了啊!!!</P>
<P>后来经由朝鲜,包括朝鲜人还有中原大陆人,有相当移民去了日本。</P>
<P>他们短短几百年就发展成父系了。没有外部文明的介入是不可能的事。</P>
<P>日本人否认历史已经是众所周知的了,这种话也信?靠!</P>
<P>我还看过介绍日本和服由来的,巧妙的只字不提“中国”二字!仿佛和中国无关!</P>
<P>日本人这样写,我们中国也看了也说哦~哦~原来如此呀!</P>
<P>那不是<a href="http://www.tianhan.com.cn/bbs/mailt#@$#@$Q%%&amp;^&amp;*%" target="_blank" >#@$#@$Q%%&amp;^&amp;*%</A> </P>
<P>在唐之前中原和日本就有交流了,这有大量史实证明!</P>
<P>交领右衽的服饰特点绝对是中国传入的!日本人至今还把“和服”叫做“吴服”呢!不然你问问日本人吴服是什么!没几个人不知道的!</P>
<P>“吴”是什么?——“吴国”的“吴”。就是现在我们的苏州一带呀!!</P>[em01]
</DIV>
<P>你不要急,交领右衽的服装日本七世纪才有,之前的是对襟贯头衫,中国的交领右衽形式已经有商代的考古证据,这个他一家之言赖不掉的
<P>和服(着物KIMONO)是西洋人取的,后来日本人也开始用,正式的名称还是吴服(GOFUKU),为什么吴要念GO,这个现在讲闽南话的朋友应该很熟悉
<P>吴应该指的就是六朝政权。相关的还包括吴织,指的是中国的纺织技术,我估计民间的汉服就是在此时传入的。</P>
发表于 2005-7-27 23:29:06 | 显示全部楼层
<DIV class=quote><B>以下是引用<I>哑男</I>在2005-7-14 10:55:00的o(︶︿︶)o 唉:</B>

<P>看到第二个熟人了 汗水…… 魔针~百物语继续传好不好?真好看啊,虽然都是老故事,改编的真好 555555</P></DIV>

なに なに??
发表于 2005-8-5 05:32:33 | 显示全部楼层
<P><a href="http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/wayou/images/3-a.gif" target="_blank" ><img src="http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/wayou/images/3-a.gif"></A></P><P>  现代日本天皇登基大典传的礼服和用具同这个画上的一模一样,只是中间没有垂带、还有手里拿的那个上朝时向皇帝汇报的备忘板做的改样了,头部大的象个饭铲。明明是汉倭奴国王大臣的装扮,还自称什么“天皇”,真是假大空的典型。</P>
发表于 2005-8-5 16:07:55 | 显示全部楼层
<DIV class=quote><B>以下是引用<I>居然</I>在2005-8-5 5:32:33的o(︶︿︶)o 唉:</B>

<P><a href="http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/wayou/images/3-a.gif" target="_blank" ><IMG src="http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/wayou/images/3-a.gif"></A></P>
<P>  现代日本天皇登基大典传的礼服和用具同这个画上的一模一样,只是中间没有垂带、还有手里拿的那个上朝时向皇帝汇报的备忘板做的改样了,头部大的象个饭铲。明明是汉倭奴国王大臣的装扮,还自称什么“天皇”,真是假大空的典型。</P></DIV>

[em17]
发表于 2005-8-5 23:16:21 | 显示全部楼层
<P>日本人现在结婚还有的穿和服。</P><P>中国人结婚穿汉服的少了。。。</P><P>是我们自己在慢慢抛弃我们自己的传统文化!!</P>
发表于 2005-8-7 15:24:38 | 显示全部楼层
<P>日本人现在结婚一般都是穿和服主持仪式,换洋装正式开宴。</P>
<P>中国人结婚穿汉服的正在逐渐增多,虽然戏装多一点。。。</P>
<P>但是我们自己确实在慢慢恢复我们自己的传统文化!!</P>
<P>[em07]</P>
[此贴子已经被作者于2005-8-7 15:30:41编辑过]

发表于 2005-8-8 17:12:25 | 显示全部楼层
前辈,我看不懂日文!
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